スペイン・ナバーラ
「味覚の文化遺産」を消滅から救った2人

ちょっといい話

そのワインを一口飲んだ途端に、それまで飲んできた同じ地方の、同じブドウで造られたたくさんのワインが突如色褪せて灰色になってしまったように感じた。それほどまでにそのワインは、味・香りといい、テクスチャといい、飲み下した後の体への浸透の度合いといい、あらゆる点で衝撃的だったのだ。

2013年の秋、我々はスペイン北東部ナバーラのワイン生産者委員会の招きで現地を訪れ、日に数軒のペースでワイナリーを訪問し、取材を行っていた。「ドメーヌ・ルピエール」というフランス語の響きをもつ造り手のワインに出会ったのは何泊目かの夜、夕食を食べたパンプローナのレストランでのことだった。同行者の一人でワインジャーナリストの古参であるE氏がこの造り手の評判を聞いていて、訪問先リストにも加えてもらえるよう招聘元にリクエストを出していたのだが、生憎この期間に造り手が渡米中とのことで訪問は叶わなかった。ではせめてワインだけでも飲んで評判を確かめようと、レストランのソムリエに問い合わせたのだ。それはガルナッチャの古木に実るブドウで造られたワインだった。絹を思わせるようなテクスチャがあり、香りはチャーミングな赤い果実と奥ゆかしいハーブが幾重にもレイヤーを成す。何よりもそのワインが素晴らしかったのは、飲むほどにこちらの気分が高揚していくことであった。それは興奮ではなく、癒しや赦しにも似た静かで厳かな高揚感だった。造り手に会ってみたい、ブドウ畑を見てみたい、という思いがムクムクと湧き上がった──。

ドメーヌ・ルピエールを見てみたい

チャンスは2年後に訪れた。その年の収穫時期に僕はフランス・ボルドーに行く機会を与えられた。ボルドーからナバーラはほんの300〜400km(!)だ。迷わず滞在期間を延長し、レンタカーを借りて、ピレネー越えのドライブに出た。
パンプローナの南にオリテという村がある。今はパラドール(国営ホテル)になっている15世紀の古城が我々の待ち合わせ場所だった。
ドメーヌ・ルピールは、夫のエンリケ・バサルテと妻のエリサ・ウカールが2人で切り盛りしている。栽培と醸造は寡黙で実直な夫が、販売とPRは底抜けに明るくて人好きされるタイプの妻が担当している。ワイナリー兼住居はオリテからさらに10分ほど走った丘陵地にあった。村の名前はサン・マルティン・デ・ウンクス、人口は200人ほどであるという。
挨拶もそこそこに我々はブドウ畑に向かった。未舗装で石ころだらけの坂道を登り、車を止め、さらにワイルドな道なき道を徒歩で登ること数分、ようやく彼らの所有する畑のひとつに出た。そこは丘の頂に近い緩傾斜地だった。剥き出しになった土は灰褐色。我々が登ってきた方向を見下ろすと、灌木の林が点々と見え、それらを取り囲むようにして、荒地と麦畑が広がっていた。よく目を凝らして見ると、中にブドウが植えられた小さな区画がいくつかあった。
我々が立つブドウ畑では昔ながらの株仕立てでガルナッチャが植わっていた。収穫直前で、枝には重そうな房がぶら下がっている。古木というにはあまりにも樹勢が旺盛で、果粒も房も隆々としている。が、一部には無惨にも枯死してしまった株も見られた。

「なんとかして故郷のガルナッチャを守りたい」

ガルナッチャ(フランス語ではグルナッシュ)は赤ワインの原料としては世界で最も多く栽培されているブドウでありながら、スペインでも南仏でも、これまではブレンドワインで主に甘い果実味とアルコールをプラスする補助的な役割に甘んじ、このブドウ単一で「偉大なワイン」と形容されるものはほとんどなかった。ブドウの樹齢が若いと、どうしても単調な味わいの安ワインになってしまう、そういう品種なのだ。しかし、樹齢70〜80年を超える古木となると話は大きく違ってくる。古木のガルナッチャの果実から造られるワインは、明朗で、ニュアンスに富み、飲み手の気分を高揚させてくれるような、秀逸なワインになる。
バサルテ氏によると、このブドウの原産地であるナバーラ地方にはかつて古木がたくさんあった。しかし、2004年にEUがブドウ畑再編政策を打ち出すと、補助金目当てにブドウ樹を引き抜いて放置したり、小麦栽培にシフトしてしまったりする栽培農家が激増。「味覚の文化的遺産」と言っても過言ではない古木は消滅の危機に瀕してしまった。先ほど述べた荒廃地や麦畑はブドウ栽培が放棄された土地だったのだ。
そんな由々しき事態に個人で抵抗したのがエンリケとエリサの夫妻だった。
「なんとか私たちの故郷でもあるこの地の古木を守りたくて、点々と残った27の畑を借金をして買い取りました」とエリサさん。畑から畑へ移動するのも並の苦労でないことは容易に想像できた。古木のポテンシャルを十全に発揮させるため、有機栽培を実践している。

「地」と「宙」に込められた生命感

ワイナリーに戻って、簡素な醸造施設を見学した後、試飲をさせてもらった。アイテムは「ラ・ダーマ(2年前に飲んだもの)」の2011と同年の「エル・テロワール」。
27の畑の収穫はそれぞれ別に醸造するとバサルテ氏は言う。キュヴェは味わいによって「地」と「宙」に分けられ、「地」に選ばれた方が、エル・テロワールに、「宙」に選ばれた方がラ・ダーマになるという。試してみると、エル・テロワールは、赤い果実、甘草の香りにミントの香りが交じる。アーシーなトーンが特徴的だった。一方、ラ・ダーマは赤い果実と野花の鮮烈な香りにハーブのトーンが交じる。両者に共通するのは横溢する生命感とコク、そして“粒”を感じるようなテクスチャだった。
テイスティングルームの窓からサン・マルティン・デ・ウンクスの家並みと一際古い教会のファサードが見えた。文化は誰かがそれに意識を向け、手をかけて守っていかないと、いともたやすく朽ちていくものだ。そう思って改めて飲むと、グラスの中のワインがさらに味わいを深めるようだった。

Photos by Hiromichi Kataoka

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浮田 泰幸(うきた・やすゆき)

ライター/ワインジャーナリスト/絵描き。広く内外を取材し、多様なメディアに寄稿する。ワインジャーナリストとしてこれまでに訪問したワイナリーは600軒を超える。スペインとの縁は80年代半ば、ガイドブック制作のために1カ月間滞在したことに始まり、以降も毎年のように訪問し、ほぼ全土を踏破。コロナ禍が収束したら未踏のカナリア諸島を取材することが現在の夢。

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